プーナ

バグアン

http://www.za.ztv.ne.jp/m-family/poona.htm

プーナ

朝の講義

天下の人が皆、美を美と知ったとき
そこから醜さが起こる
天下の人が皆,善を善と知ったとき
そこから悪が起こる
つまるところ
有と無は互いに補い合って成長する
両方を使いなさい
選ばないこと
生とは相互依存だ
罪も使ったらいい
それがあるのには目的がある
さもなければ,そんなものは存在しないはずだ
怒りも使ったらいい
それがあるのには目的がある
さもなければ,そんなものは存在しないはずだ
何ものも、目的なしに生の中に存在しないはずだ
どうしてそれが何の目的もなく存在できよう?
生は”カオス(混沌)”じゃない
生は意味のある”コスモス(秩序宇宙)”なのだ
有と無は互いに補い合って成長し
だから、いて同時にいないでごらん
難と易は互いに補い合って完成し
長と短は互いに補い合ってコントラスをかもし
前と後は互いに補い合って結びつく
反対は本当に反対なのではなく給足だということだ
そらを分けないこと
区分けは虚溝だ
それらはひとつなのだ
それらは互いに依存し合う
どうして愛が憎しみなしに存在できよう?
どうして慈しみが怒りなしに存在できよう?
どうして生が死なしに存在できよう?
どうして幸せが不幸せなしに存在できよう?
どうして天国が地獄なしに可能なものか?
地獄は天国の反対じゃない
そのふたつは補い合うものだ
そのふたつは一緒に存在する
実際のところ
それらは同じコイソの裏表にほかならないのだ
選ばないこと
両方を楽しみなさい
両方がそこにあるのを許しなさい
そのふたつの間にハーモニーをつくるがいい
選ばないこと
そうすれば
あなたの生は反対同士のもののかもしだす交響楽となるだろう
そして,それこそ可能な限り最も大いなる生なのだ
それは,ある意味では最もあたり前で
ある意味では最も桁はずれだろう
私が「仏陀は空を飛ぷ」と言うのはそこだ
彼には地上部分がない
 バグワン・シュリ・ラジネーシ講和集「TAO」より


 西海岸の大都市ボンベイから中央線で約4時間、デカン高原の学園都市プーナ。
この静かな小都市に突然バグアン・シュリラジネーシがアシュラムを開いたため、インドを訪れる若い探求者たちの巡礼の地となった。
 街を行くオレンジ・フリークスの姿もだんだん日常の風景となってきた。
コレゴンパーク17番地では、押し寄せてはブルージーンを脱いでサンニャーシンのオレンジ色に変身する外人の群れ。

 アシュラムの朝は夜明けのダイナミックメディテーションで始まる。
周辺のホテルやアパートからサンニゃーシンが続々と集まる。
 瞑想よりも、8時からのバグワンの講義が目的だ。5ルピーの講義代を払って、木立に囲まれた「孔子ホール」で待つ事しばし。
 やがてバグワンがおでましだ。
いつもながらのすごい一時間半の大トリップが始まる。
「enough for today?」(今日はこのぐらいかな?)と言ってバグアンが姿を消した後には、放心と涙と沈黙と会得の笑顔とエクスタシーと失神とが魂のダンスを舞う。

 バグアンとの面会(ダルシャン)
 ただバグワンの前に坐るだけでいいという人、グループが終わって全員で報告に来た人たち、「いったいどんな人なんだろう?」と半信半疑の非(ノン)サンニヤーシンの訪門者たち…‥ね、わかるでしょう? タルシヤンこそ本当にバグワンの腕の見せどころ。次から次と名前を呼ばれて前に出て来る人たちを、一人ひとり見事に料理して行く。
 新しく弟子になる人には、その人にふさわしい名前をつけ、その意味を中心にどんなふうに瞑想して行ったらいいか、何がその人にとって鍵となるかを丁寧に話してきかせ普通まず手はじめにいくつかのグループ(これについてはもうちょっと後で)を授ける。
 問題を持って来た人には、その問題に応じてやさしくなだめたり 鋭く核心を突いたり,自ら手をくだしてエネルギーの調整をしたり,たまには冷たくあしらったり、それはもう千変万化。
 まさに人間を花咲かせる名人(マスター)、天才的園芸家と言っていい。
その名人芸とすペてを支える深い愛と、強烈な覚醒の光のもとで、自分も含めてあらゆる種類の花たちがすくすくと育ち 花開いてゆくのを見ることは、言い知れぬ深い感動を呼び起こす。
 手品まがいの奇跡や、その場限りのご利益ではなく、人間そのものの開花という本物の奇跡がバグワンの本領なのだ。

 瞑想と並んでその名人若の一役を担うのが、さっきから何回か出て来ている通称「グループ」だ。
 これは潜在能力開発運動(Humau Potential Movement)と総称されるエンカウンター・グループ、プライマル・セラピー(原始療法)ゲシュタルト・セラピーーなどの精神療法(サイコ・セラピー)や、古くからのタントラ、禅、ヴィパッサナー(南方仏教系の瞑想法)などのメソッド、指圧、マッサージなどの肉体的アプローチをバグワンかもうひとひねりして、それを十数人から数十人のグループ・セッションとしてやる。
 古来の統然たる瞑想だけでは解決しきれない現代人の複雑な身心の病いに焦点を当てた、フロイトユングライヒなど以来急速に人間意識の核心に迫りつつある現代精神医学の最も先鋭的な方法論だ。
 西洋からバグワンのもとを訪れる人々の中には、この流れを汲み、しかもその限界を認識して、生きた覚者の存在に触れに来る第一線のセラピストが多く あっさり降参してサンニャーシンになった後、アシエラムのグループ・リーダーとしてバグワンの片腕となって働いている。
 これらの療法によっていろいろな心理的抑圧、葛藤を整理してはじめて、古くからの瞑想の道が本来の効果を現わし得るというのがバグワンの持論で、ここ数年来プーナはサイコセラピー発祥の地として名高いアメリカのエサレンを凌ぐ世界のメッカになりつつある。
 これらのセラピーに共通して流れているのも、やはり「いまこの瞬間に、あるがままの自分でありきること」一一。もうそれにつきるみたいね、どうも。
 瞑想やバグワンの波動(ヴァイブレーション)でジワジワと料理されてきてるところへ3日から長いもので1週間ぐらい、グループによっては全員泊まり込みでみっちり「自分を開いて生きる練習」をするんから、まるで圧力釜だ。どんなコチンコチンの堅物でも、しばらくするうちにいやでもこだわりや防衛がとれてきて ブーナ産ニュー・ピープルの一丁上がりになる。
 この間も話してたんだけど ある意味ではここは60年代ぐらいからの、ヒッピーだのコミューンだの、ドラッグだの神秘主義だの、サイコセラピーだの東洋思想だのという新しい時代の兆しのような一連の動きのエッセンスだけ抜き出してきて、それをサッと短時間のうちに濃縮して体験させる新人類製造所みたいな趣きがある。それも、(目覚め)というはつきりとした方向づけと、バグワンというそれを実際に体現しているひとりのプツダの現存のもとでね。

 大実験

 大体感じがわかってきた?そうなんだ、ここはひと足早く21世紀にはいっちゃってるみたいな、人間の未来のための実験場なんだ。
まったく理不尽千万な因習とか社会の規制をはずし、親や学校によって無意識深く植え込まれた不自然な抑圧を取り去り、狂気のような世界を生きて来る間に受けた心やからだの傷を癒し得たとき、はたしてそこにどんな(本性)が現われてくるかーー? 仏陀はそれを仏性と言い、ヒンドゥー教ではそれを真我(アートマン)即梵(ブラーフマン)と言う本当にそうなのかどうか? そして、そういう人間たちが織りなす人間関係、社会構造、文明はどんな様相を呈するか?まだプーナに移って本格的にはじまってからたったの4年だけど、もういくつか顕著な変化が現われている。
 ひとつは男女関係の変化ね。一対一とか、固定的なカップルというのは姿を消す方向にあって、ものすごく流動的になってる。
まあ、現代の地勢のもう少し先の姿かな。核家族すら崩壊して、男も女もひとりになる傾向だ。
 必要なときにはそのとき一番波長の合った相手としばらく一緒にすごしそれに固執しないで、ひとりになりたくなったり、別な人と接近しはじめたらまた自然に離れる。また同じ人に戻ることもあるし、ずっとひとりになる人もいる。月とか天体の動きとも密接な関係があるみたいだな。
 そのかわりに、いろんな人とつき合ってるうちに心を許せる人がいっぱいできてきて、コミュニティー全体がひとつの家族みたいな零囲気を持ちはじめる。ひとまわりして原始共同性と相似するのかもね。

 もうひとつは、テレパシー的になること。みんなが自然の流れにより近い動き方をしていると、何も言わなくても必要なことが必要なときに起こったり、会いたいと思った瞬間その人がふいに現われたりする。
 あと、自分がそのとき抱えている問題が、アシエラム全体にたくさんの人の抱えている問題だったり。みんなの喜怒哀楽が同じようなサイクルで足並み揃つてたり。おもしろいことはいっぱいある。
 もうひとつ、最近は子供連れの人もずいぶん多くて、アシエラムのまわりにかなりの子供が自立ってきてるんだけど、その子たちの成長の早さ。大人たちも精いっぱい成長はしていても やっぱりもう固まっちゃってる面も多くて相対的に見ればゆっくりだ。それがここの子供たちときたら、タブーはない抑圧もない基本的な共通ルール以外やりたい放題だから 恐ろしいスピードで成長する。別な言葉で言うと ませるのが早いの。まったく末恐ろしいったらありゃしない。末恐ろしい末恐ろしいと言われていたぼくらが、20過ぎかヘタすると30ぐらいまでかかってのんぴりやってた経験を、思春期ぐらいまでで済ましちゃうんだから。どうなるんでしょうねえ?

 最後にもうひとつおまけ。このアシエラムはもうすぐなくなる。ラジニーシダム・ネオサンニヤス・インタ「ナショナル・コミューンという次なるステップヘ発展的解消しようとしているのだ。日一日と、ものすごい勢いで流れ込み続ける探求者たち。母国をひき払ってオレンジファミリーに身を投じる覚悟をしたサンニヤーシンたちでプーナはもう満員。

 "あなた方には《仕事》(バグワンの言う仕事とは自己実現のプロセスのこと)のできる安全な場所が必要だ。世間に煩わされない場所、群集からのどんな防害も受けずにすむ場所、普通のこと、タブーや禁制が脇にのけられる場所、ただひとつー−どうやつてプッダになるかーーということだけが重要となろ場所”……バグワンはそういう場をプツタ・フィールド(仏典に言う仏国土とはこのことです)と呼ぶ。

 “プッダ・フィールドとは、あなたの眠りこけたプッダが日覚まされ得るひとつの状況を意味する。プッダ・フィールドとはあなたが成長し、成熟ししはじめられる、あなたの眠りが破られ得る、あなたが覚醒へと揺さぶりをかけられ得る、ひとつのエネルギー場を意味する。
プッダ・フィールドとは、ひとりのプッダが多くの実存たちを成払させるエネルギーの場ー−一つの浄土、この世ならぬ世界、すみやかなる精神成長のための理想的条件を提供する地上のパラダイスなのだ。‥われわれは、それをやろうとしている。”

 現在計画されているのは、約2万人規模の大瞑想コミューン。候補地はグジャラート州の海辺などいくつかあがっているけど まだ確定はしていない。
 これがはじまれば そこは確実に、これから21世紀にかけて、絶滅かさらなる進化かの正念場を通り過ぎようとしている地球人類にとって最大のキー・ポイントのひとつになるだろう。
幼ない自我(エゴ)を棄てて、仏陀やイエスがその予兆であったような本当に成熟した人間に生まれ変わることができるかどうか?それも あそこにポツリ、また何世紀かたってここにポツリじやなく。圧倒的多数の人たちが連鎖反応的に悟ることができるかどうか?悟っているのがあたり前の、プツタたちの社会が出現するかどうか?それが、母なるインドの大地が周到に用意し、バグワンというモデルケースも調えて、混迷の20世紀に贈る大実験だ、という気がしてしかたがないんだな。

 事実 こんな人間の集まりは地球上ほかのどこを探しても見あたらないだろう。世界のあらゆる国籍の、あらゆる階層の人たちがこともあろうに瞑想という、悟りという
 究極の<自殺>のために一同に会し、文字通り溶け合おうとしている。そして、フェニックスの逸話やイエスの十字架のたとえを知ってるでしょう?大いなる死の先にのみ、大いなる生が、大いなる復活が待っている。いまはまだ混沌としたこの意識とエネルギーのるつぼから何が飛び出すかがそれは、これからやって来ようとしているあなたにもかかっている。
 ここに来る資格?人間であれば誰でもいいんじやない。もう、ブッダなんだから。まあ、いま自分が生きてる生がどこかおかしい、こんなはずじやないということを見抜くぐらいの力は必要かな。それと、自分の自我(エゴ)を明け渡して、もう一度生まれ変わろうとする勇気と決断力はいる。 
 あと、お利口さんで格好いいばかりじやなくて、馬鹿になる臭気もね。だって 最初にバグワンに合ったらどうするかっていうと、首に披の写真のはいったペンダントをかけてくれて、古い名前はやめて新しいわけのわからない名前をくれて、オレンジの服を着ろと言われて「どうしてですか?」とかきいたりすると、「みんなに笑われるようにだよ」なんて笑いとばすんだから。冗談きついよね。
 こつちは真剣だっていうのに。でも、深刻さや、つっぱり、大げさはみんな病気だっていうのもバグワンの基本的メッセージのひとつ。この宇宙に理由なんてないんだって。
ただのお遊び、大ジョークなんだってさ。こっちもそのつもりにならないと 調子が合わないらしいよ。

 じゃあ待ってるからね。日本からは続々来ることになってるし(今はまだ40人ぐらいかな)、この間もタルシャンで「私は日本人とドイツ人には目をつけている。」なん笑ってた。

RS・何か大事なことをたくさん書きき亡てるような気がするけど まあ来ればばわかるから パイパイ

                                  プラブツタ





  コーショー旅日記
 昔は一地方の小さなありふれた町だっだのだが、1970年代にバグワン・シュリ・ラジニーシ師がアシュラムを開いてから、彼の教えを請う人々が世界中から集まってきて数万人の街になってしまった。
 この時代には、バグワンを初めサイババやクリシナ・ムルティーなどの世界的に有名になる人々が知られるようになった。
 その中でもバグワンは特に秀でていて、彼の教えを受けた人々がサンニャーシンとしてオレンジの服をまとい、世界中に発生?した。
 かつて1960年代に、オーロビンド・ゴーシュというグルが、インドの南も町で彼の教えを広め、それに感化された世界中の人々が集まってきて、その町がオーロビルという最先端の町となったが、オーロビンド・ゴーシュは金儲けには興味が無かったので、彼の死後、その町はすたれてしまった。
 同様にバグワンも金儲けや身分や地位の保身に興味が無かったため、インド政府により母国を追われた。彼は大勢の弟子(サニャーシン)達とアメリカに逃れたが、やがてアメリカからも邪魔者扱いをされようになった。マスコミでは面白おかしく、醜聞が書かれた。私はサンニャーシンでもないし彼にも会っていないが、彼の著書「存在の詩」や「究極の旅」を読み、バグワンのいるインドに旅立つサンニャーシンやかれに会いたがる人々と接したが、バグワンの教えは真実に思えた。
 金儲け主義のエセ宗教家とは違って、金や保身に縛られない自由な教えは、20世紀の偉大なグルの一人であろう。
 やがて彼は亡くなり、その求心力は彼とともに消えてしまった。
現代社会は、真に愛する事や信頼などとは無関係に、金や地位を最終目的のみ存在しているような気がする。それは間違っていると唱えたバグアンやオーロビンド・ゴーシュなどは、やがて過去の人として歴史から消えていくのかもしれない。
 これは私の勝手な意見だが、シッダルタの興した仏教、やモハメッドのイスラム教や、イエスキリスト教などの宗教は、寺院や教会などの存続するための資金を調達できる組織ができたから現存しているのであろう。もちろん彼らがそうしろと言ったわけでもないし、良いとか悪いとかそんな次元で言うのではないが、教えが優れているだけではその教えは次世代に受け継がれていかないかもしれない。

 現在のプーナは何も無かったかのように、学園都市に戻り、コンピューターのプログラマーを多数輩出している。




  シッダルータ                                  ヘッセ
 シッダールタは言った.「友よ、私にはそうは思えない。私が今日まで沙門のもとで学んだことなんか、ゴーヴィンダよ、もっと早くもっと簡単に学べただろう。売女街の居酒屋でも、荷馬車の御者やばくち打ちの間でも学ぷことができただろう」
 ゴーヴィンダは言った。「シッダールタよ私をからかっているのか。どうして君は冥想を、呼吸の停止を、飢えや苦痛にたいする無感覚を、あのみじめな人間のもとで学べたというのだ?」
 シッダールタは自分自身にでも言うように、小声で言った。「冥想とは何か。肉体からの離脱とほ何か。断食とは何か.呼吸の停止とは何か。それほ自我からの逃避、我あることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない。そんな逃避や、しばしの麻酔なら、牛追いだって宿屋で数杯の酒か、発酵したヤシの乳液を飲むとき、見いだすのだ。それで牛追いほ自分を忘れ、生活の苦痛を忘れ、しばしの麻酔を見いだす。彼は、数杯の酒で寝入り、シッダールタやゴーヴィンダが長い修行のうちに肉体から脱出して、無我の中にとどまるときに見いだすものを見いだすのだ。そうなんだよ、ゴーヴィンダよ」
 ゴーヴィンダは言った「友よ、君はそう言うが、シッダールタは牛追いではなく、沙門は酔いどれではないことを知っている。いかにも酒飲みは、麻酔を、しばしの逃避、休息を見いだすが、酔いからさめれは、万事旧態依然たるを見いだし、すこしも賢くはなっておらず、認識を集めてもおらず、いちだんと向上しているわけでもない」
 シッダールタはほほえみながら言った。「それは私にはわからない.私はついぞ酒飲みではなかった。私は、修行と冥想のうちにしばしの麻酔を見いだすばかりで、母胎の中の子どもと同様に知恵と解脱から遠く離れていることを知っている。ゴーヴィンダよ、それを私は知っている」
 また別なとき、シッダールタはゴーヴィンダとともに森を出て、村の中で兄弟や師のためにいくらかの食べ物をこうて歩いているうち、話しはじめて、言った。
「どうだろう、ゴーヴィンダよ、われわれはただしい道を歩いているのだろうか。悟りに近づいているだろうか。解脱に近づいているだろうか。それともひよっとしたら、輪を描いてぐるぐるまわっているのではないか。輪廻から脱出しようと考えているわれわれなのだが」
 ゴーヴィンダは言った。「われわれほ多くのことを学んだ、シッダールタよ。だが、まだ学ぶべき多くのことが残っている。輪を描いてまわっているのではない。われわれは上に向って進んでいる。輪はらせん形をなしている。われわれはもう幾段か登った」


 シッダールタは言った。「われわれは老人になり、修行をし、断食をし、冥想をするだろう。だが、涅槃には達しないだろう。思うに、沙門はたくさんいるが、おそらくひとりとして、ただのひとりも涅槃には達しないだろう。われわれは、慰めを、麻酔は見いだすだろう。自分を欺く技巧はおばえるだろう。だが、肝心なことは、道の中の道は見いださないだろう」
 「そんな恐ろしいことばほ口にしないでほしい、シッダールタよ!」とゴーヴィンダは言った。「あんなにたくさんの学者の中で、バラモンの中で、あんなにたくさんの厳格な尊敬すべき沙門の中で、探究し、熱心にいそしんでいるあんなにたくさんの神聖な人の中で、だれひとり道の中の道を見いださないということがどうしてあろうか」
                                            


   クリシナムルティの日記                     クリシナムルテイ
 人類はなぜ誤ちを犯すのか、なぜ堕落していくのか、なぜ淫らにふるまうのか、なぜ攻撃的で暴力的で狡猾なのか、あなたほ不思議に思ったことはないだろうか?。
 環境や、文化や、親たちを責めるのはよくない。私たちはこの退廃の責任を、他人やなにかの出来事のせいにしたがる。説明したり原因をあげつらうことは安易な逃げ道にすぎない。古代のインド人は、それを業(カルマ)と呼んだ。
 自分で種を蒔いたものは自分で刈るということだ。
 心理学者たちほ問題を親からの影響ということに置き換えてしまう。いわゆる宗教的な人々ほ、自分たちの教義や信仰にもとづいてあれこれ言う。
 しかし問題は依然として解決されない。


 「昔の人たちは自分たちの経験、瞑想における至福、超意識、聖なる実在(リアリティー)ついて語っておる。ひとつ尋ねたいが、先人たちの語ったことも、尊い模範も、すべて脇へどけてしまわなければならんのかな?」
 瞑想における権威など、まさに瞑想そのものを否定している。あらゆる知識、概念、模範は、瞑想においてほなんの役にも立たない。
 瞑想する者、経験する者、思考する者、この当の者を完全に排除することが、瞑想の本質そのものだ。この由由こそ、瞑想の日常の行為である。
 観察する者は過去のなかに在り、彼の基盤は時間である。彼の思考、イメージ、影は、時間に縛られている。知識ほ時間であり、瞑想が花開くことによって、人ほ既知のものから自由になる。そこにはなんの体系(システム)もない。真理や瞑想の美を示す方向もない。
 他人に追従すること、模範や言葉に従うことは、真理を遠ざける。ただ関係という鏡に映しだすことによって、存在の素顔を見ることができる。見る者は、見られるものだ。徳がもたらす秩序(オーダー)なしには、瞑想も、他人たちのきりのない主張もまったくなんの意味もない。そういったものは完全に的はずれだ。真理には、なんの伝統もない。それは手渡しできるものでほない。