歩いて国境を越える、その2.ポカラ⇔ナウタンワ

ナウタンワ

http://www.za.ztv.ne.jp/m-family/boder.html



歩いて国境を越える、その2.ポカラ⇔ナウタンワ


  ナウタンワからボカラへ
ナウタンワの駅からバスに乗りボーダーに向う。70パイサ位。
カスタムとイミグレーションを通過して国境のゲートをくぐる。
ポカラ行きのバスが朝方出ている。25Rs。所要時間10時間。
尚、国境からパイラワまでバスで3Rs 40分位かかる。
パイラワからルンピン行きのバスとポカラ行きのバスが出ている。

    ネパール国境のパス
長距離バスは、2時間おきぐらいに小さな村で10〜20分程休憩する。
そこでは物売りが来たり、小さな店にはスイカやウリやバナナ、オレンジなどが並んでいる.
また茶店ではチャイやコーラやパン、ビスケット(名前がナビスコではなくビスコになっている)なども売っている。
昼頃になると、昼食を用意してある村に着く。食事はネパールデイッシュの定食になっていて、金属の皿にカレーセットがもりつけてあリ3〜4Rs。おかわりはただ。生水はなるべくさける。
地元の人たちは手で食べる。スプンは付いてこないので、自分で用意する事。
バスはオンポロバスで窓ガラスはヒピが入っていたり割れていたりしている。シートは板の上にビニールがはりつけてあるだけのものが多く、おしりが痛い。
道が悪いので半日も走ればそこら中ほこりだらけになるので帽子やタオルがあると良いだろう。
荷物やリュックはたいてい車の屋根の上の荷台に乗せられるので、ホコリや日光や雨にうたれやすいのでビニールのカバーなどをかけておくと良いだろう。
また自分の荷物がしっかりと固定されているか、確かめておかないと途中で落っこちたりして大変だ。
道は一等道路ですら所々ガケ崩れで土砂が積っている。
一度雨が降ると数カ所のガケ崩れがおきる。
数10m程の日本の山や谷とちがってこちらは何百mの一方はヒマラヤの山、もう一方はヒマラヤの谷である。
もし谷にでも落ちれば命が助かるかは論外で一生五体満足な遺体も引き上げてもらえないのではないかと思えるくらい深く、スリルは万点である。


   ネパールのポカラから、インドへ国境を越える

この旅に出る前、大阪の旅行会社にあった旅行者の落書きノートに「ネパールのポカラから陸路で国境を超えてインドのナウタンワに行った」というメモがあった。
大学ノートに数行書いてあるだけで、詳細は分からない。
それで私は、国境を超えるのはカンタンに行けるものだと思い込んでしまっていた。
その当時、それは大きな間違いだったのだ。

   バイラワ着
ネパールのポカラから朝7時15分発のネパール側国境の町バイラワ行きのバスに乗った。料金は22ルピー(460円ほど)。
しかし、そのバスの所要時間はなんと10時間もかかってしまった。着いたのが夕方5時。
3時ごろの陽の明るいうちに着くだろうと思っていたから、大きな誤算だった。
今日は遅いからインドにいくならここで一泊した方が良いと、青年が助言してくれたが、大丈夫と言って国境に向かった。

   いざ国境へ
3ルピー40パイサ(70円)払って、ボーダー(国境)行きのバスに乗り40分かけて国境に着いた時には、あたりはうっすらと暗くなり始めている。
地元の人間はビザ無しで何のチェックも無しにスイスイと通れるのに、外国人(私)は何かと手続きに時間がかかる。
両替所でネパールルピーをインドルピーと交換し、ネパール側のカスタムイミグレーション(税関)でパスポートのチェックと出国税20Rsを払い、国境線に歩いた。
国境線と言っても、ちっぽけな学校の文化祭などのようなアーチ状の門をくぐるだけである。
そしてインド側に入り、インドのイミグレーション(入国審査所)で入国の手続きを済ませ、てくてくと歩いていくと後ろで役人が呼び止める。何かと聞くと「カスタム」税関がまだ済んでいないと言う。

急いでカスタムまで戻って通関の手続きをする。
荷物の中の薬箱をさして「何だ?」と聞くので、「メディソン」(薬)だと言った。
どうもそれがいけなかったようだ。ヤク(マリファナLSDやヘロイン)と思ったらしい。
しつこく調べられた。身振り手振りで胃に手を当ててこの薬は「ストマック」(胃腸薬と説明したつもり)、額に手を当てて「ベリーホット」(解熱剤の説明のつもり)、頭い手をやって「ヘッド・ピン」(頭痛の薬の説明のつもり)などとやっているうちにようやく係員は「オーケー」と言って通してくれた。
すっかり遅くなってしまった。

急いでナウタンワ駅行きのバス停に向かって、田舎の田んぼの中の一本道をリュックを背負いながらてくてくと歩き出した。
あたりは夜となり真っ暗だ。
地理もわからないし、どれくらいかかるのかも分からない。
この道で合っているのだろうか?どれくらいかかるのだろう?
心細いどころか、不安になってくる。

それでも、こんなところに止まっているわけには行かない。
仕方無しに、外灯などの明かりも無い真っ暗な道をてくてくと歩き続ける。
途中、田んぼのあぜ道にインド人がうずくまるようにして座り込んでいる。目だけが異様に白く光る。
なんとなく不気味に感じる。追いはぎだったらどうしようなどと不安になる。

  不思議な光景
そんな田んぼの一本道の真っ暗な中を、コガネムシぐらいもある異様に大きなホタルがふわーふわーと飛び交うのだ。
すごく不思議な光景だった。
それまでの不安な気持ちと、ホタルの幻想的な光景とがあいまって、私は別世界に入ったような不思議な気持ちになった。
体と心がフワーとして中に浮いたような、今までの不安とあせりで必死だった気持ちが、スポンと抜けたような、いつまでもそこにとどまっていたいような感覚。
これまでに経験した事の無い、良いとか悪いとかいう次元ではない、まさに異次元の別世界に迷い込んだような感じだった。
これは同じような体験をした人しか分かってもらえないかもしれない。
ほんの10数分の事だがとても長く1時間ぐらいに思えた。

しばらく行くと道端にバスが停まっている。看板も建物も無いがここがバス停なのだ。
「ナウタンワステーション?」と聞くと運転手は首を横に振った。(インドやネパールで日本と違い首を横に振ると「イエス」と言う意味になる。「ノー」の場合は首は振らずに言葉で「ナヒン」とか「ノー」と言うことが多い)
70パイサ(21円)を払ってバスに乗る。

運転手は、しばらく客待ちをして、パラパラと数人が乗た後、もう客が来そうにないとみると、おもむろにバスを発車させた。


   ナウタンワ
30分して、8時過ぎにナウタンワのバス停に着いた。しかし駅は見えない。
運転手に「ステーション?」と聞くと道の先を指差した。
日本のように駅前まで行ってくれないのだ。

しかたなしに、またてくてくと田んぼと粗末な家が点在する暗い道を歩き出した。
なにか、当て外れのような、少々疲れ気味になってしまった。
すると先のほうで小さく「ポー」と汽笛が聞こえる。
汽車の汽笛だ。駅は遠くない!
私は我に帰り、暗闇の一本道を小走りに汽笛の聞こえた方に歩いた。
時間にして、歩き始めてから10分か20分して、ようやくナウタンワの駅の明かりが見え出した。
駅の周りには数軒の家が集まっている。

ようやく駅についたが、汽車は出てしまった後だった。
小さな駅なので、ホテルも無い。建物が数件しかないからすぐわかる。
しかた無しに、駅員に次の列車はあるかと聞くと、夜の11時に最終列車がゴラクプールまで行くと教えてくれた。
ゴラクプールがどこにあるのか分からないし、どんな所かも分からないが街だというので行けば何とかなるだろう、少なくとも何も無いここよりはましだろうと思った。
3ルピー40パイサを払って乗車券を買った。

出発までにまだ2時間ほどある。しかし何かしようにも駅の周りには何も無いのだ。
裸電球で照らされた茶店があったので、粗末なイスに腰掛けてチャイを飲んだ。
そして夜空を見上げると、満天の星、星、星。
体の疲れがどこかに消えていくような気がした。

夜の10時過ぎにオンボロ汽車がナウタンワ駅に入ってきた。
さっそく乗り込むと、腰掛けるシートは木の板だ。真中の通路をはさんで一人掛けの席と3人掛けの席があるが、言わば木のベンチに座るようなものだ。
出発時刻まじかになると3割ほどの客が乗り込んできた。

  チャイはいかが?
旅行姿の私が気になるらしく、あちらこちらら視線を感じる。やがて太ったおじさんが英語で話しかけてきた。
「ホエア アーユー カム フロム?」何処から来たのかと言う問いだが、国は何処だと言う意味である。
「ジャパン」と答えると、「オー」と言って振り向き乗客みなにこの人はジャパンから来たのだと説明をしているようだ。
すると乗客も「オー」と言って声をあげる。
「歳はいくつか?」「家族は何人だ?」などの質問をして、そのつど他の乗客に解説をする。
それほど私や日本に関心があるのかと思ったが、どうも要するに、格好のみんなの暇つぶしの種にしか過ぎないようだ。なにしろ「ジャパン」がどこにあってどんな国かもみんな知っていないだろうと思える。
やがて質問も出尽くして(難しい英語の質問ができない)、静かになった。

窓の外に「チャイー、チャイー」と声を出してお茶売りが来た。片手にチャイの入った大きなヤカンを持ちもう一方の手にはカゴに入った素焼きの湯飲み茶碗を持って売り声をかける。
何人かの客が窓越しにチャイを買っている。さっそく私も飲むことにした。料金は25パイサ(15円)。
飲み終わるとインド人たちは素焼きの湯のみを地面にたたきつけて割ってしまう。
もったいないと思い、私はリュックの中に素焼きの湯のみをしまいこんだ。
後から分かったのだが、カーストや衛生的などの習慣もあるのだろうが、インド人は同じ食器を他人に使わせない。
そのために素焼きの湯のみはとても安くできているし、土から作り土にかえすだけなのだ。
私がしまいこんだ湯飲みは、やがて邪魔になり、結局私も捨ててしまった。

11時になり、オンボロ汽車「ボー」と汽笛を鳴らしはナウタンワの駅を出発した。
汽車は真っ暗な大地をひらすら走り続ける。たまに小さな集落に街灯の明かりがポツンポツンと見えるぐらいだ。
3時間ほどするとだいぶ家の数も増えだし、ようやく町に近づいてきたのがわかる。


   ゴラクプールGorakhpur
夜中の2時過ぎにようやくゴラクプールの駅に着いた。
駅に降りると、夜中なので何も無い。普通なら客引きのタクシーやリキシャのおやじがうるさいくらいに近づいてくるのだろうけど誰もこない。
駅の外に出ると、駅前にオートリキシャ(ミゼットのような小型三輪自動車のタクシー)が止まっていて、運転手が寝ている。
無理やり起こして「チープホテル」と言ってホテルに連れて行ってもらった。
近くのKAILASHホテルは満室だったので、街中のYARKホテルに行くとダブルの部屋しか空いていないが仕方ないので泊まることにした。
3階建ての小さなホテルで、料金も25ルピー(750円)だ。

さっそくシャワーを浴びて体のほこりと汗を落とし、寝ることにした。
蚊がプーンと飛んだので日本から持ってきた蚊取り線香をたいて寝た。
朝になると、蚊取り線香など体験した事の無い大きなガまで落ちていた。
この辺の虫は抵抗力が無いので、日本製蚊取り線香はすごくよく効くようだ。
 
翌朝、両替のためにホテルのおやじに地図(実にヘタだった)を画いてもらいバンクロードにある銀行に行った。
その後、かどのメシ屋に入り食事をすることにした。
ここでも日本人の旅行者はめずらしいらしく、かっぷくの良いおじさんが「ホエア アーユー カムフロム?」と聞いてきた。
汽車の時同様、彼が通訳をして店の客らがそれを聞いて「オー」と声をあげる。
この店にはカレーしかない(一般的にもそうなのだが)。なにがあるのかときょろきょろしていると、店のおやじがこれを食えと勝手にカレーを出してくる。
チャパティーが出てきたら、通訳(迷惑?)のおじさんが自分の食事を使って「こうやって食べるんだ」と親切に説明してくれる。なれない手つきで食べているとおじさんは、おやじに「ブレッド」と言って、勝手にパンをたのみ、持ってくる。そして「バター」と言ってバターも出させる。
「味はどうか」と聞くので「ベリーホット(辛い)」と言うと店の客たちは笑った。インドのカレーはネパールよりずっと辛い。
めずらしい日本人に対しなんだかんだと世話を焼いてくれるが、少しうれしいような、とてもありがた迷惑のような気持ちだ。
しかし楽しく食事はできた。料金は2ルピー50パイサ(75円)。

ゴラクプールを夜の11時にラクノー行きの汽車に乗った。料金は13ルピー80パイサ(410円)。
なを、ここからバラナシに行く事もできる。7時間かかる。


   ラクノー Lucknow
7時間後の朝6時にラクノー駅に着いた。ラクノーは大きな街だ。ナウタンワからゴラクプールとラクノーまでは汽車のレールの幅が狭いゲージのローカル線であっが、ラクノーは主要幹線のレール幅の広いエアコン付きの大型特急列車が通っている。

ラクノーは大きな駅で色々な設備がある。
乗客が泊まることのできる宿泊施設リタイニングルームがあったので、ここで仮眠をとる事にした。
ドミトリー(相部屋方式)で大きな部屋にベットが10台ほど並んでいる。出入り口は中の駅員が見れるようになっていて割りと安全だ。24時間使用できて荷物も預けられる。料金は4ルピー。
その他にリレイティングルームは個室になっており、テーブルやソファーなども置いてある。もちろん料金も高い。
エイティングルームはファーストクラスの切符を持った乗客専用の待合室である。入り口では係員が切符をチェックする。
リフレッシュルームにはレストランがあって食事はそのレストランでした。席は2箇所に分かれていて一方がベジタリアン(菜食主義)専用で、もう一方がノンベジタリアン(肉食)席になっている。もちろん私はノンベジ席でエッグカレーを食べた。

ラクノーからホームを変えて、幹線の特急に乗りニューデリーに向かった。夜9時40分に出発し朝8時にニューデリーに着いた。10時間の乗車で料金は22ルピー30パイサ(670円)。ちなみにエアコンのきいたゆったりシートのファーストクラスの料金は88ルピーする。


ちなみに、余談だけど、Booking Officeで何するとこかわかる?
乗車券発売所のこと。私は最初分からなかった。
Bookて本としか、学校で習わなかったから。
日本の英語教育は、すごくちぐはぐで遅れていると思いました。
このままの教育ではいつまで習っても、英語が話せないと思う。