モルディブ

モルディブ

http://www.za.ztv.ne.jp/m-family/maldive.htm

             モルディブ
インドの南西500km。2000余りの島のうちわずか200島に人が住み、残りは無人島となっている。
さらにその島々がいずれも標高5m以下の低平な地形で、環礁群内の海中のサンゴはチェーン状に連なっている。
各島の大きさは100mからせいぜい2Kmという素晴らしさ!?
 ヨーロッパのバカンス・レジャークラブの最大手「地中海クラブ」なんかもお目見えしたぐらいだから、最高にいいリゾート地になっちゃうんだろうけど。なんか複雑だね!

入国に際しては、ビザ不要。通貨の持ち込み、持ち出しに制限はなく、ドル、ポンドの他インド、セイロンルピーも交換可能。
また自由港なので酒顆は免税。ただし回教国のためお酒とブタ肉およぴその製品の持ち込みは禁止されている。

  モルディブでの生活
水中メガネ、シュノーケルは必需品。
しょうゆ、ワサビも必需品。
カツオ1匹60円(安い)
卵1個60円(高い)
コーラ(高い)
採れたてのパイナップルジュース(安い)
モルディブ自由貿易港なので酒などが安いので、インドで高く売れる。

  みやげ
黒サンゴ
カメのはく製(どうやって持ち帰るの?)

  マーレの宿
安ホテル5ルピー
小屋2ルピー
もちろん高級ホテルもある。
たとえばツーリストアイランドホテルは1泊24ドル。

  海
船の手配が重要
湾外はサメに注意




    モルディブ三千世界の詩

モルディブの飛行場に降りてびっくりしたのは、村の若者達やおじさん達がそこで働いているという雰囲気だった。
 飛行場というのは、たとえインドでもアフガニスタンでも何か威圧的な雰囲気があるのに、ここは違っていた。パスポートもイエローカードも見ようとしなかった。それでもヨーロッパの観光客達はマイク片手の白系の女の子に従ってツーリストアイランドに行く。

 定期的な小さな小船に乗ってその飛行場だけがある島から、この国最大の島マレーに行く。この首都は15分も歩けばサンゴ礁の海に出てしまう。
 荷物を箱車に載せてもらいなんとなくみんなが次々に教えてくれる安ホテルに泊まった。(確か6ルピー)。白い珊瑚の砂地がきれいだ。人々は何かやさしい。でも僕はこんなところに来たのではない。小船を雇って旅人の誰も行かない小島に行った。

 月夜に美しい砂浜にたどりつき、一軒二軒と交渉(現地語だけ)しながら4、5件目にやっと家に泊めてもらった。島の子供達はさっそくやって来て、澄んだ目で見ている。ところが翌朝起きてみると、反対側の海がすぐ見えた。
 ちょうどモスリムの8月の断食月にあたるので、人々は赤い太陽が赤く青い海に色を変えて沈むまで何も食べない。その合図は村長が吹くほら貝。人々は一目散に大人も子供も珊瑚で作った白い家に駆けて行く。静かな朝は子供達だけが特別飲める椰子の水をとる為の音がドスンドスンと地に響いている。

 大きな珊瑚礁で囲まれた島々はいつも静かに波うっている。何メートルも続く珊瑚の浅瀬の色の下には無数の魚達が泳いでいる。顔を近づけても彼らは後ずさりするだけだった。少し深いルリ色の海の中は魚達の世界。何百位の大きな青い魚達が流れに乗ってついてくる。足を動かすと一勢に動く音が聞こえる。何か平和な魚達の歌声の底には黒い不思議な動きをする鮫がいた。僕らの世界のまわりには魚達がいつも泳いでいたので、ぼくはその時に子供達に出す仙人テストの一つを思いついた。(地球上の全部の魚が空中に上がったら海はどの位沈むでしょうか?―――青い空が増えた分だけ沈むでしょう)。カニが遊ぶ椰子の木の繁る小島の回りは青い魚達の世界だった。幾千万の色を変えて沈む夕陽を見て、50歩も反対側を歩くと赤い満月が昇ってくる。やがて黒い雲が足早にやってくると、そこから海に向かって煙のような雨が沈む。そのときぼくは初めて雨が斜めに降るのを見た。

 島の人達は風向きによって帆船を走らせ漁にいく生活でのんびりしている。マリー島の市で買い求めた野菜を自炊して、しばらく暮らした。ここの食事はほとんどがカツオ節のようなものを入れるので、菜食の若者は大変だ。
 ある時子供達が遊んでいた椰子の木の繁みに、彼らの宝の隠し場所を見つけた。中には白い砂をきれいに敷き詰めた上に大切そうに割れた茶碗やココナツやきれいな貝がいくつもあった。
 こんな夢のような珊瑚の海にも丸紅の関係の力のある船が走ったり、ロブスターをとり尽すような、目がギラギラとした人々の話を聞く。
 何故かここは人々にかかわらないであって欲しい。詩の海で。毎朝出るマレーに品物を運んだりする帆船に乗って帰る時、青い海はぼくに歌わせたんだ。

  梅よ 教えておくれ 幾千万の青い衣を
  海よ 教えておくれ 幾千万の白い波を
  海 珊瑚の青い魚達
  海よ おまえはいつも 空の風達よ
  海よ そんなにおまえが美しい姿を見せる
  空は やがて星の
  空は やがて月の
  我らは 青き海原を どこへ旅するの
  小さき帆船に乗りて はしる風を受け
  三千世界の海よ ゆくえ知れぬ旅
  帆船よ走れ 群れなす魚の海へ

   長谷川時夫 タジマハール旅行団(かつて海外でも少しは知られた前衛音楽バンド)


 長谷川時夫さんについて少々
私が彼と初めて会ったのは、1978年ごろだったと思う。
彼はまだタジマハール旅行団という前衛音楽のバンドのメンバーであった。その当時はシンセサイザーなどはまだ発達しておらず(1980年代のYMO喜多郎の出現まではエレクトーンの延長上もしくは電子楽器音程度だった)かれらは、ギターやドラム以外に、シタールやタブラなども使って、無国籍なオリエンタルサウンドを作曲し演奏していた。一般にはあまり知られていなかったが、その筋の人々には高く評価されていた。
 その彼がインドに行くために私のいた旅行会社TICにやってきたのが始まりだった。
やがて彼は菜食主義者となり、動物性食物を食べなくなった。しかしこれは実に難しい。たとえばそばを食べるにしても、味付けに魚のカツオダシが使われていたり、油にラードなどの動物性油が使われていたりするからだ。
 彼は新潟の十日町の山奥の大池という過疎の村に住みついた。そこで彼は自ら野菜を作り、菜食を続けた。この十日町は雪深いところで、冬になると農家の屋根まで雪に埋まってしまう。晴れた朝、二階の窓から外に出ると、雪原にこんもりとふくれた農家の屋根の上に、点々と野うさぎの足跡が雪で埋もれた森の中まで続いていたりする。そのような中で彼は様々な活動を続けていた。
 その彼が、仲間十数名を連れてネパールに行くため、TICにやってきた。それでさっそく旅行の手配をしたが、菜食主義者のため手配は難航した。まず飛行機の機内食からの手配だ。魚や肉の油さえも使ってはならない。JALやヨーロッパ系の飛行機会社では無理だ。そのため、菜食の可能なインド航空かタイ航空かシンガポール航空にしぼられた。結局ネパールまでの便があるタイ航空にすることにした。ネパールでは知人の日本人が経営しているラリグラスホテル(昔の王族の屋敷を使ってホテルにしていた)に宿泊をお願いしたし、準備は万全・・・のはずだった。
 ところがバンコックでネパール便に乗り継ぐ時に、飛行機のオーバーブッキングがおこり、席がない。こちらとの国際電話の手配で、乗れなくなった彼等十数名はタイ航空が用意したホテルに一泊して翌日のネパール行きに乗ることになったのだが、ホテルで菜食のメニューがない。肉食も可能なら高級ホテルなので無料で分厚いステーキでも食べられたろうが、どうしても菜食を通している数人はサラダだけという厳しい夕食に我慢しなければならなかった。そんなすったもんだのネパール旅行であったが、その後は結構楽しんで旅行できたようだ。
 その後彼は十日町に帰ってから、精力的に活動をし、廃校になった小学校も買い取って、インドのミティーラ地方の絵を紹介するアートギャラリーを作り、後にミティーラ美術館としてインドの文化の紹介と日本の交流に尽力したということで両国政府より感謝状などが贈られた。
 私も数回十日町に行ったが、とても良いところだった。(真冬を除いては)。