カトマンズの見所

パタン

カトマンズでもやっぱり自転車に乗って

人々に愛される「街」の条件といえば、「自転車が便利なところ」というのが、必ず入って来る。
京都、高山、軽井沢、パークレイしかり。
ここ、カトマンズもやはり、坂道の多さといい、街なみといい自転車姿がぴったんこのところだ。
まあ、あなた、だまされたと思って、そこらじゅう自転車で走り周って見れば! 1日貸りて5Rs ぐらいだから安いもんですよ。
ただし、変速機なんてついていないから少々しんどい。
優越感にひたりたい人は、折りたたみ式の10段ギヤのすごい奴を持ち込んで、アンナブルナをバックにきめて下さい。

 カカニの丘
カトマンズの北西27kmにある標高1950mの丘。
ヒマルチユリ・マナスル・カネッシュヒマール等の中部ネパールヒマラヤの峰を眺められる。
丘の上にはホテル・カカニがあリ1泊25Rs程。

 ナガルコツト
カトマンズの東35kmにある標高2150mのヒマラヤ展望台。
東部ネパールヒマラヤを一望に見渡せ、エベレストがかすかに見られる。
宿泊はエベレスト・ロッジがあり1泊25Rs程。

ドウリケル
カトマンズの東30kmにある標高1700mのヒマラヤ展望台。
展望はナガルコツトからの眺めとはぼ同じだが、道路が良く便利。

コダリ
ドウリケルより中国側の、中国(チベットのラサに通じる)との国境のあるところ。
バスは1つ手前の付バラビセまでで、そこから先は車を使う。
バラビセには安宿が2軒ある。

国境の手前の検問所。ここから先は地元住民か中国のビザを持った人しか入れない。

ダマン
カトマンズから南西80kmのインドに通じる道路の中間にある標高2700mのヒマラヤ展望台。


        その他の村
ビルガンジ
東部タライのナラヤニ県の中心で人口は1.6万人のインド・ネパール間の重要な商業都。
ネパール第2の工業都市でもある。
ここからアムレクガンジまで狭軌鉄道が通じている。

ビラトナガル
東部タライのコシ県の中心で人口5万人のネパール最大の工業、商業都市
カトマンズからダージリン間のバス中継点。 

エベレスト地域            
エベレスト登山の中継点だが、高度が3000mを超えるため、心臓等の弱い人には高山病にかかるキケンがある。       
登山基地になるナムチェバザールには、マウントエベレストビューというエベレストを眺められる高級ホテルがある。

タライ地域
タライはインドとの国境地帯に広がる亜熱帯で、バナナや薯提樹の繁るジャングルにはトラ、サイ、象やワニ、淡水イルカが棲息している。



    主な見どころ その他

 ダーラハラ
1832年、ピンセン・タバによって建てられた円形の高い塔で、塔上から見回りするための望楼。
1934年、地震で倒壊した後再建され、50mの塔上からはカトマンズ盆地全域を見わたせる。

 シンガ・ダーバー
1950年までネパールを専制政治で支配していたラナー族の宰相公邸であった建物で、2頭のライオン像があったことからライオン(シンガ)の宮殿(ターバー)と呼ばれた。
現在は1973年の火災でわずかに正面だけが残っている。
また火災をまぬがれた集会場であったホール.は現在国会議事堂となっている。

国立博物館
5〜6世紀から現代に至る文化財と剣や鉄砲などが陳列されている。
附属に図書館や野性動物の剥製などもある。(火曜日休館)

スワサンブナート
別名モンキーテンプルと呼ばれ、カトマンズの北西の小高い丘の上にあり、約2000年前に建てられたストウパー式の仏教寺院。
階段には仏像、ライオン像、ガルータ神の像などが順々に並んでおり、頂上にはゴンパと呼ばれるラマ教チベット仏教)の寺院がある。
   
またストウバーの四方に大きな目が描かれており、この丘からはカトマンズ盆地が一望に見潰せる。ぜひ行きたい所である。
  

伝説によると、カトマンズ盆地がまだ大きな湖だった時、中国からやって来たマンジエスリ菩薩が盆地の岩山を切り開き湖水を干あがらせて人の住める土地にした。その時最初に現われたのがこの丘であった。


 ボードナート
別名眼玉寺と呼ばれ、カトマンズ市街から7kmにある世界最大級のストウバー式仏塔。
約2000年前、マナ・デバ王が夢の中で現われたマニ・ジョギニー女神のおつげにより建てたといわれている。
ストウバー自体の規模はスワヤンブナートよりひとまわり大きい。
周囲にはチベット人が多く住み、チベット民芸品などが多い。


 バラジュ
カトマンズの西北4kmのバグマティ河岸にあり、ドラゴンの形をした22の石の水口から清水が流れる公共水汲場(ターラ)である。
また、池の中にはヘビの上に寝ているビシュヌの神像がある。

パシュパティナート
カトマンズの東4kmのバグマテ河岸にあるシバ神を祀った寺院。
シバの神を表わすリンガム(男性の性器を表わす石柱)を祀った小堂がいくつも並んでいる。
ヒンドゥ教の聖地でヒンドゥ教徒以外中に入れない。

ゴカルナの森
カトマンズの東9kmにある王様の御狩場だったところを開放した森。
この他にチヨバールと言われる古代カトマンズが湖であったころ水が流れ出したところや、ヒンズー教の望地タクシンカリなどがある。

バタン市
カトマンズの南5kmにある、3〜4世紀にビラ・デバ王により築かれ13〜16世紀にかけてマルラ王朝の都であったところ。
王宮やヒンズー教、仏教の寺院が多く建っている。
町の入口にはアショカ王がネパールを訪れた記念に建てたアショカ王の仏塔があり、町の中心にはドルバール広場(王宮前)があり、二重三重に寺院が並んでいる。
カトマンズより素朴な街並みで民芸品などに掘出し物もある。

     


動物園
ネパール国内に棲息する野生動物や鳥類が集められている。

ゴダオリ植物園
バタン市の南9kmのブルチョーキ山の麓にある。
蘭などを主体とした植物園。

ドガオン市(バタタブール)
カトマンズ市の東4kmにある。889年アーナンタ・デバ主により開かれたマルラ王朝の郁であったところ。
ドルバール(王宮前)広場には精巧な木彫を施した55の窓を持つ王宮やカトマンズ盆地内では最も高い36mの五重の塔があるニヤタポーラ寺院がある。
旧王宮の一部は美術館と博物館になっている。(火曜日休館)

カトマンズのバザール散策

バザール

カンティパス通り→アッサン広場→ケルトール広場→インドラチョーク広場→マカントール広場→ダバースクエアー(王宮広場)

      バザール散策

ラニ・ポカリ池のカンティパス通りからアッサン広場、インドラチョーク広場を通ってハヌマンドガまで歩いてみる。
カンティパスの交差点の右側にはナショナルシアターがあり時々ネパール舞踊をやっているので、詳しい事はツーリストオフィスで聞くと良いだろう。
さてバザールに入ろう。右側には荷車を運ぶ人夫が集まって世間話しをしている光景をよく見かける。
その奥には貸自転車屋がある。
まず本屋。ここには色々な本がある。子供の絵本だとか、ネパールについての本チベットのマンダラ、そしてネパール語ネワリー語、英語、日本語の辞典などもある。
ここからしばらくテーラーや服屋が続きやがてアッサン広場に出る。
ここは、食料品や穀物の粉屋が集まっている。お菓子屋さんもある。
ここから先はバケツ屋、食器屋、金物店が集まっている。様々な食器や容器が所狭しと並べられている。
この先に小さな広場があり、ネパール帽子店が数軒あるので、おみやげにとのぞいてみるのもよい。
この辺から少しづつ、布地屋とみやげ物屋がふえてくる。
2楷の軒先に民芸服やジユータンをつるしたみやげ物屋も多く狭い急な階段を登ったりして、ネパール建築の家の造りを知ることができる。
この先にある広場がインドラチョークでニューロードに出るスカラパス通りと交叉している為、だいぶはなやかな雰囲気になる。
ここにはアカシュパイラブというヒンズー寺院があり、信者が集まってヒンドー教の歌や音楽を演奏をしていることが時々ある。ここで使われている楽器は、日本の祭りなどで使われているものとさほど変わらないらしく、聞き覚えがある。
バザールをさらに進むと、今度は両側にぎっしりと布地屋が並んでいる。サリーなどはここで買うとよい。
またカバン屋も数軒あり、帰る際、いっぱいになってあふれ出したみやげ物や荷物を入れる為必ずここのカバンの世話になる。スーツケースのような現代的なものは少ないがアンチィックな感じのものが多く、日本に持って帰ればそれ自体、良いみやげ物となる。
この道の右側にコンティ・ホテルとKTホテルがあり、その間の路地を入ると、チベットのマンタラや民芸店を売っている店がある。
ここから先は靴屋が多くなり、インド製のスニーカーなんてのもおもしろい買物だろう。
やがてタルジュ寺院の表広場に出ると道は少しL字形に曲っている。
一番左側のカバン屋2軒の他はほとんどみやげ物屋ばかりが軒をつらねて並んでいる。
ネパールの民芸品はこの辺が一番多いようだ。
やがてこの道は旧王宮前のハヌマンドカ側に出て終わりとなっている。

カトマンズのフリークストリート

フリーク

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フリークストリート

「ハツシシ吸イマスカ?両替シマスカ?」
正式名ジョチエン通りだが、安宿やレストランが多く、ヒッピーが多かったのでフリークストリートの別名が付いたのだろう。
バサンタフル広場の入口には必ず、物売りが寄ってくる。
民芸品、ハッシシ、閣ドル屋などだが、驚くことにみんな日本語で声をかけてくる。
ここにやって来る旅行者の3番目に多いのが日本人だということから、その日本語の普及度は理解できる。
ここで注意しなければいけないのは、最初に値投を5倍ぐらいにふっかけてくることだ。
何を買う場合でも、相場を知っておかないと後で損をする。
この広場の東側には、しやれたコーヒーショップ・モナリサがある。
南側には夏には涼しいヒマラヤ・コールドドリンク店と、ソニーテープデッキでロックをかけてくれる、内装のいかしたイエンヤンレストランがある。
さらにこの通りを入ると、みやげ物屋が軒を並べている。
民芸服やバックなど色々ある。
その2階にはBuy and Saleの看板のかかった店があり、旅行者の服やジーパンや小物などを下取りしてくれる。
もちろん、いくらで売るかは売る人の腕次第。
この辺から安宿が並んでいる。モニメンタルロッジ、ナマステロッジ、オリエンタルロッジ、エベレストロッジなどがある。
レストランは、ハングリーアイ、ドントパスミーパイ、ニューゴールデンドラゴン、キムリング(金陸飯店)などで、チベット料理やヨーグルト、それにコーヒーやトーストなど色々食べられる。
この通りは中心街の一部でもあり、安旅行者には何かと便利。ひまがあれば、ぜひ一度は落着いてみたい所だ。

カトマンズのニューロード

ニューロード

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ニューロード
公園に面したカンティパス通りの軍病院とネパール航空本社の間を、西にのびるモダンな商店の並ぶ通りが、カトマンズで一番華やかなニューロードだ。
 神様の彫刻で飾られた門をくぐると、3車線の通が一直線に伸びている。真申の車線は駐停車場になっていて、カローラなどがここに停っている。
 門をくぐった右側にはエンポリウムがあり、民芸品などを売っている。
その横の道を右手に入ると、有名なストーンロッジとキャピタルレストランがある。
しばらく行くと、両側にはみやげ物、骨董品、宝石の店が並んでいる。左側の宝石店では、注文した指輪をその場で作ってくれたりする。銀製の4個から6個の輪を1つの指輪に組み上げる知恵の輪のおもしろいマジックリングも売っている。その他タイガーストーンやムーンストーントルコ石などの宝石の指輪や銀製品がお値打ちだ。
右側には文房具店が2軒あり、ネパール和紙が一枚20Pでたくさんそろっている。お土産にもおもしろい。
 さらにしばらく行くと、左側にネパール銀行両替所がある。一般に外人旅行者はここで両替を行なう。
最初の交差点の右側には、アメリカン・ライブラリーがあり、図書室やアメリカの情報収集に利用されている。
 その道を南へ下ると、楽器店やパノラマ・ホテルがある。
北側の通りには、ネパール・コーヒーハウスという喫茶店、さらた、チヤイのおいしい茶店がある。ユニティーというレストランは、パイやケーキがいけるし、野菜サラダは量がたっぷりだ。それにミネラルウォーターだから安心。外人が経営しているので、どことなくしゃれている。
 さらにニューロードをまっすぐ進むと、お菓子や食料品の店が多くなる。
特に右側のPANNA(パンナ)という有名なパン屋がある。余談だが、カトマンズにはこのパンナ店とクリシナ店のパンがおいしくて、パンナ党、クリシナ党と愛好家が2分される程なのだ。
次の交差点には、木の茂った小さな広場があり、新聞売り、靴みがき、宝くじの露店が集まっていて、いつも人々がいろんな話をしている。
 この交差点を南に下ったパンジャプ・レストランはカレーのおいしい店だ。ぜひ一度食べてみてほしい。
北側の通りにはCOSYホテルがあり、突き当りが映画館だ。いつもインド映画をやっていて、入場料は1Rsから5Rs程。一般には3Rsぐらいの席が良さそうだ。
この交差点を少し進んだ所にある建物の2階には、インドラ・レストランがある。洋食インド・ネパール料理など品数が多く、初心者向けと言える。
その横はブーゴル・パークという小さな公園になっていて、大きな地球儀がある。
その南側がネパール銀行本社。
次の交差点の中央には、このニューロードを作ったラナ時代の宰相ジエッグの銅像が立っている。
北側のスカラパス通りに右手にはマーケットがある。マヘンドラ国王の戴冠式(日本から皇太子夫妻も出席)の時には、駐車場付きの大マーケットができる予定だったが間に合わなかった。
その向いには高級なクリスタル・ホテルがあり、ここの屋上に登って南京豆を食へながらジュースでも飲んでいるとごきげんだ。
南側のタラマパス通りの左側には、パレス・ホテル、マルカール・ホテルがあり右側には、消防署、本屋、ガネーシ・ホテル、オーム・レストランがある。
 ニューロードをさらに進むと、左側にネパール・中国友好協会、ネパール、、ソビエト、フレンドシップアソシエーションが並んでいて、ネパールの微妙な立場が十分うかがえる。
向かいの右側には、ツーリストオフィスがあり、旅行者の色々な相談に応じてくれる。また、カトマンズの地図やガイドブック(英文)も売っている。
 その先の右側には、昔王宮のハヌマンドガ、左側にはバサントプール広場がある。
門から約600mの距離だ。捜せばもっとおもしろい店がたくさんありそうだよ。

最近のネパール

ストゥーパー

最近のネパール
テレビのニュースや新聞に載っていたのですが、ネパールが今混乱しているようです。昔はおだやかな国だったのに、数年前に皇太子が自分の意中の彼女との結婚に、占いで災いが起きると国王から反対されたため国王を銃殺し自分も自殺してしまいました。一人生き残った皇太子の弟が、国王になったものの、国内の政治を掌握できず議会を解散させてしまったため、あちらこちらでデモや反乱が起きているようです。
 想像も付かなかった事態になってしまいました。無事うまく収まってくれればいいのですが。昔のようにネパールに行けば、昔の日本にいるような、ホッとできる穏やかな国に戻ってほしいと願っています。

ネパール

ネパール

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ネパール

 地理・気候
インド亜大陸チベット高原をへだてるヒマラヤ山脈を背にして、南北に200km、東西に850km伸びた長方形の王国。
大きく分けて、冬は雪におおわれるヒマラヤ山岳地方、温暖な亜熱帯性気候の中部山岳地方、モンスーン期には湿気が多く酷暑のタライ地方に分けられる。
総面積は142094k〓でほぼ北海道の2倍。入口は約2200万人。14の県に区分され、主蔀はバグマティ県のカトマンズ
気候は大陸性気候と高山性気候で、昼と夜の気温差が大きいので、寝冷えしてカゼをひかないように注意する必要がある。
一般に山岳地方を除いては、日本よりも暖かい所が多い。
一番暑い時期は5月。6月から9月は雨季のモンスーン期になるので、傘があると便利。
それ以外は乾期となる。冬の12月から2月にかけては最低気温は0℃以下になるが、平均気温は日本よりも暖かい。
冬はセーターやジャンバー、夏はTシャツやカッターシャツで十分。

 歴史・政治
古代は紳話の時代から、西暦4世紀にインドの王家により興されたリッチヤピ王朝時代までで、その後13世紀から18世紀にいたるマルラ王朝時代が中世となる。
インドとチベットの貿易などにより現代のネパール文化の美術や建築が行なわれたのはこの頃。
近代はシャハ王のグルカ王朝からラナ家専制政治時代となり、1951年王政往古から再びシャハ王朝にもどり、シャハ王朝10代目のピレンドラ・ピル・ビクラム・シャハ・デパ王が、1975年に即位。
その後不幸な事件があり2004年に次男のGyanendra Bir Bikram Shah Dev(ガヤネンドラ・ビル・ビクラム・シャハ・デバ)氏が国王に即位。しかし政情不安がささやかれているが、観光で成り立っている国であるため、旅行にはほとんど問題ないようである。

 民族・言語・宗教・文化
インドのアーリア系民族やチベット系民族などが複雑にからみ合い、またヒマラヤの閉鎖的な地理により様々な民族が存在する。
そして、カトマンズ盆地にネパール文化を築いたネワール族、中部ネパールのグルン族、山岳地帯のシェルパ族、タカリー族、アーリア系のプラーマン、チェトリなとの多程多様な民族が各自で言語、文化、宗教を持っている。
宗数は北からラマ教などの仏教系、南からはインドのヒンドウー教系で、中央は仏教を融合したヒンドウー教系となっている。
言葉は現在、高等教育で英語が使用され−般には英語で十分通じる。
ラナ家専制政治時代まで鎖国政策を取っており、開国したのは1951年の王政復古
からである。

モルディブ

モルディブ

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             モルディブ
インドの南西500km。2000余りの島のうちわずか200島に人が住み、残りは無人島となっている。
さらにその島々がいずれも標高5m以下の低平な地形で、環礁群内の海中のサンゴはチェーン状に連なっている。
各島の大きさは100mからせいぜい2Kmという素晴らしさ!?
 ヨーロッパのバカンス・レジャークラブの最大手「地中海クラブ」なんかもお目見えしたぐらいだから、最高にいいリゾート地になっちゃうんだろうけど。なんか複雑だね!

入国に際しては、ビザ不要。通貨の持ち込み、持ち出しに制限はなく、ドル、ポンドの他インド、セイロンルピーも交換可能。
また自由港なので酒顆は免税。ただし回教国のためお酒とブタ肉およぴその製品の持ち込みは禁止されている。

  モルディブでの生活
水中メガネ、シュノーケルは必需品。
しょうゆ、ワサビも必需品。
カツオ1匹60円(安い)
卵1個60円(高い)
コーラ(高い)
採れたてのパイナップルジュース(安い)
モルディブ自由貿易港なので酒などが安いので、インドで高く売れる。

  みやげ
黒サンゴ
カメのはく製(どうやって持ち帰るの?)

  マーレの宿
安ホテル5ルピー
小屋2ルピー
もちろん高級ホテルもある。
たとえばツーリストアイランドホテルは1泊24ドル。

  海
船の手配が重要
湾外はサメに注意




    モルディブ三千世界の詩

モルディブの飛行場に降りてびっくりしたのは、村の若者達やおじさん達がそこで働いているという雰囲気だった。
 飛行場というのは、たとえインドでもアフガニスタンでも何か威圧的な雰囲気があるのに、ここは違っていた。パスポートもイエローカードも見ようとしなかった。それでもヨーロッパの観光客達はマイク片手の白系の女の子に従ってツーリストアイランドに行く。

 定期的な小さな小船に乗ってその飛行場だけがある島から、この国最大の島マレーに行く。この首都は15分も歩けばサンゴ礁の海に出てしまう。
 荷物を箱車に載せてもらいなんとなくみんなが次々に教えてくれる安ホテルに泊まった。(確か6ルピー)。白い珊瑚の砂地がきれいだ。人々は何かやさしい。でも僕はこんなところに来たのではない。小船を雇って旅人の誰も行かない小島に行った。

 月夜に美しい砂浜にたどりつき、一軒二軒と交渉(現地語だけ)しながら4、5件目にやっと家に泊めてもらった。島の子供達はさっそくやって来て、澄んだ目で見ている。ところが翌朝起きてみると、反対側の海がすぐ見えた。
 ちょうどモスリムの8月の断食月にあたるので、人々は赤い太陽が赤く青い海に色を変えて沈むまで何も食べない。その合図は村長が吹くほら貝。人々は一目散に大人も子供も珊瑚で作った白い家に駆けて行く。静かな朝は子供達だけが特別飲める椰子の水をとる為の音がドスンドスンと地に響いている。

 大きな珊瑚礁で囲まれた島々はいつも静かに波うっている。何メートルも続く珊瑚の浅瀬の色の下には無数の魚達が泳いでいる。顔を近づけても彼らは後ずさりするだけだった。少し深いルリ色の海の中は魚達の世界。何百位の大きな青い魚達が流れに乗ってついてくる。足を動かすと一勢に動く音が聞こえる。何か平和な魚達の歌声の底には黒い不思議な動きをする鮫がいた。僕らの世界のまわりには魚達がいつも泳いでいたので、ぼくはその時に子供達に出す仙人テストの一つを思いついた。(地球上の全部の魚が空中に上がったら海はどの位沈むでしょうか?―――青い空が増えた分だけ沈むでしょう)。カニが遊ぶ椰子の木の繁る小島の回りは青い魚達の世界だった。幾千万の色を変えて沈む夕陽を見て、50歩も反対側を歩くと赤い満月が昇ってくる。やがて黒い雲が足早にやってくると、そこから海に向かって煙のような雨が沈む。そのときぼくは初めて雨が斜めに降るのを見た。

 島の人達は風向きによって帆船を走らせ漁にいく生活でのんびりしている。マリー島の市で買い求めた野菜を自炊して、しばらく暮らした。ここの食事はほとんどがカツオ節のようなものを入れるので、菜食の若者は大変だ。
 ある時子供達が遊んでいた椰子の木の繁みに、彼らの宝の隠し場所を見つけた。中には白い砂をきれいに敷き詰めた上に大切そうに割れた茶碗やココナツやきれいな貝がいくつもあった。
 こんな夢のような珊瑚の海にも丸紅の関係の力のある船が走ったり、ロブスターをとり尽すような、目がギラギラとした人々の話を聞く。
 何故かここは人々にかかわらないであって欲しい。詩の海で。毎朝出るマレーに品物を運んだりする帆船に乗って帰る時、青い海はぼくに歌わせたんだ。

  梅よ 教えておくれ 幾千万の青い衣を
  海よ 教えておくれ 幾千万の白い波を
  海 珊瑚の青い魚達
  海よ おまえはいつも 空の風達よ
  海よ そんなにおまえが美しい姿を見せる
  空は やがて星の
  空は やがて月の
  我らは 青き海原を どこへ旅するの
  小さき帆船に乗りて はしる風を受け
  三千世界の海よ ゆくえ知れぬ旅
  帆船よ走れ 群れなす魚の海へ

   長谷川時夫 タジマハール旅行団(かつて海外でも少しは知られた前衛音楽バンド)


 長谷川時夫さんについて少々
私が彼と初めて会ったのは、1978年ごろだったと思う。
彼はまだタジマハール旅行団という前衛音楽のバンドのメンバーであった。その当時はシンセサイザーなどはまだ発達しておらず(1980年代のYMO喜多郎の出現まではエレクトーンの延長上もしくは電子楽器音程度だった)かれらは、ギターやドラム以外に、シタールやタブラなども使って、無国籍なオリエンタルサウンドを作曲し演奏していた。一般にはあまり知られていなかったが、その筋の人々には高く評価されていた。
 その彼がインドに行くために私のいた旅行会社TICにやってきたのが始まりだった。
やがて彼は菜食主義者となり、動物性食物を食べなくなった。しかしこれは実に難しい。たとえばそばを食べるにしても、味付けに魚のカツオダシが使われていたり、油にラードなどの動物性油が使われていたりするからだ。
 彼は新潟の十日町の山奥の大池という過疎の村に住みついた。そこで彼は自ら野菜を作り、菜食を続けた。この十日町は雪深いところで、冬になると農家の屋根まで雪に埋まってしまう。晴れた朝、二階の窓から外に出ると、雪原にこんもりとふくれた農家の屋根の上に、点々と野うさぎの足跡が雪で埋もれた森の中まで続いていたりする。そのような中で彼は様々な活動を続けていた。
 その彼が、仲間十数名を連れてネパールに行くため、TICにやってきた。それでさっそく旅行の手配をしたが、菜食主義者のため手配は難航した。まず飛行機の機内食からの手配だ。魚や肉の油さえも使ってはならない。JALやヨーロッパ系の飛行機会社では無理だ。そのため、菜食の可能なインド航空かタイ航空かシンガポール航空にしぼられた。結局ネパールまでの便があるタイ航空にすることにした。ネパールでは知人の日本人が経営しているラリグラスホテル(昔の王族の屋敷を使ってホテルにしていた)に宿泊をお願いしたし、準備は万全・・・のはずだった。
 ところがバンコックでネパール便に乗り継ぐ時に、飛行機のオーバーブッキングがおこり、席がない。こちらとの国際電話の手配で、乗れなくなった彼等十数名はタイ航空が用意したホテルに一泊して翌日のネパール行きに乗ることになったのだが、ホテルで菜食のメニューがない。肉食も可能なら高級ホテルなので無料で分厚いステーキでも食べられたろうが、どうしても菜食を通している数人はサラダだけという厳しい夕食に我慢しなければならなかった。そんなすったもんだのネパール旅行であったが、その後は結構楽しんで旅行できたようだ。
 その後彼は十日町に帰ってから、精力的に活動をし、廃校になった小学校も買い取って、インドのミティーラ地方の絵を紹介するアートギャラリーを作り、後にミティーラ美術館としてインドの文化の紹介と日本の交流に尽力したということで両国政府より感謝状などが贈られた。
 私も数回十日町に行ったが、とても良いところだった。(真冬を除いては)。